マスコミ掲載記事


松原弁護士の人となりを知って頂くための資料として、主な新聞記事等を掲載致します。

産経新聞 2008年6月27日

さらば革命的世代 第1部 隣の全共闘 ⑧」  ― 「村」の弁護士の転向論 ―



以下、掲載内容

■「左」から「右」へ

 全国で「村」にある弁護士事務所はわずか3件。そのうちの1件が奈良県明日香村にある飛鳥京法律事務所だ。 ここで一人、孤塁を守る弁護士の松原脩雄さん(63)は東大全共闘の元闘士だった。 昭和44年1月の安田講堂攻防戦で凶器準備集合罪などで逮捕、起訴された一人でもある。
 「塀の中に入った人の気持ちが分かる」という異色の弁護士だが、還暦を過ぎた今の思想を尋ねると「どちらかといえば右」と答えた。
 「考え方が変わったということ。つまり転向です。伝統的保守を大事にする民主主義に落ち着きました」
消費税の是非が問われた平成2年の衆院選では、当時の土井たか子委員長のもと、請われて社会党から出馬し、衆院議員を1期務めた。  ただ、同党の非現実路線にはすでについていけず、政権交代能力のある政党に変えようと自衛隊や原発容認論などに取り組んだ。
 最終的に社会主義や共産主義と決別するきっかけになったのは翌年のソビエト連邦の崩壊だった。 「マルクス主義の世界観が完全に終わった」と思った。
 全共闘世代で、松原さんのように堂々と「転向」を口にする人は、むしろ少数派だ。 転向という言葉に後ろ暗い意味合いを持たせ、自らの過去や思想の移り変わりをはっきりと語らない人も多い。 若かりし日には、なぜ運動をするのかと問われ「ベトナム戦争」「大学解体」と明快に答えた人たちも、運動から離れた理由については口をつぐんでしまう。
 松原さんは、選挙戦でも運動歴を隠さなかった。 「昔で言うところのゲバ学生でした」と演説などで公言し、弁護士事務所のホームページのプロフィルにも「逮捕歴」が記されている。 過去を隠すつもりはないのは「徹底的に体を張ってやった」「完全燃焼した」からだという。


 ■あえて火中の栗を拾う

 大阪府立大手前高校から昭和39年に東大進学。 中学、高校はラグビー少年だったが、入学直後から新左翼セクトに入り、マルクスを読みふけった。 逮捕歴は5回、留年は3回にのぼった。 安田講堂事件では、その年の夏まで勾留されたが完全黙秘で執行猶予判決を受けた。 何も知らずに警察に呼び出された母親は、逮捕歴の数に驚いたという。
 「僕は体育会系ですから、デモでもストライキでも、理論より身体を張ることが大事だと思った。自らが当事者になることで、権力に対する怒りに震え、 機動隊に殴られて痛みを知る。それをやることで人間は変わる」
 実は松原さんは、落城直前の安田講堂にあえて飛び込んでいる。  当時、すでに運動の一線を離れていたが、「同志が体を張っているのに、何もしなければ一生後悔する」と思ったからだ。 率先して火中の栗を拾った行動に周囲は驚いた。 一方で、途中で逃げ出したり、運動の中枢に飛び込めなかったメンバーの中には、いまだ不完全燃焼の思いを抱き、コンプレックスを抱く人もいるという。
 ただ、松原さんが現在のように「きっぱり」と過去を総括できたのは、その後の弁護士や代議士としての成功体験が大きいからではないか。 当時の運動経験者の中には就職もままならず、社会から身を隠しながら、過去に目をつぶって生きてきた人もいるからだ。
 松原さんは「そうかもしれません」と否定しなかった。 その上で、「みなそれぞれ、人生の分かれ目のようなものがあったのだと思う。結果論ですが、私は、何とかうまくいくように自分を変えてきたのだと思う」と話した。

 ■あの時代に戻れたら 

 弁護士ゼロの明日香村に事務所を構えたのは昨年3月。 全共闘時代の「大衆とともに生きる」という思想と「日本の伝統文化の源流の地」という、いわば「左」と「右」2つの理由からだった。 村の弁護士として活動は地域密着型で、村民の相談には安価で応じる。 一方で息長く続けるため、村民同士の係争は受け付けないとも決めている。
 以前に、弁護士仲間と同じ奈良県内で事務所を開いたときには、「貧しい人のために」と積極的に国選弁護人を引き受けながらも、「思想的な壁にぶつかった」。 どちらが勝訴するにせよ、司法という制度自体が国家に権力発動を促す行為だと感じたからという。
 「今にして思えば、反権力や左翼のイデオロギーからはなかなか抜けきれなかったのだと思う。ただね、負けてしまった思想にいつまでもこだわらざるを得ないようになると、 だれとも話が合わなくなる。逆に話ができる人がいたり、全共闘の同窓会というようなものがあったとしても絶対行かないですけどね」
 現在好きな作家は「日本人の伝統や生き方を考えさせられる司馬遼太郎」。  好きな政治家は「自民党はダメなので小沢一郎」。
 築100年の古民家で、和服姿で六法を開く姿に「元左翼活動家」の面影は微塵(みじん)もないが、それでもかつての自分の行動が間違っていたとは決して思っていないという。 むしろ「あの時代に戻れたら、また参加するかもしれない」とさえ言う。 思想的には間違っていたとしても、あの運動自体は、若者たちが「私」ではなく「公」のために自己を犠牲にした闘いだったと強く思っているからだ。
 「僕は当時の学生たちの行動や勇気は歴史として語り継がれるべきだと思っている。この国がおかしくなったときに真っ先に声を上げなければならないのは次世代を担う学生たちだからだ。 この先も自由で安全な社会が続くかどうかは分からない。再び学生が街頭で立ち上がらなくてはならない日がくるかもしれないのだ」 現在、大学生になる息子たちには、そう訴えているという。


図書新聞 2008年6月28日号

新連載 第二回  「政権交代へのオデッセイ」
(2)「新人類」による社会党のペレストロイカ、ニューウェイブの会

 今回から、近々起こるであろう「政治的大変」の伏流水を順次たずねていくことにする。 最初に取り上げるのは、「政治的大変」におそらくもっとも早い時期に生まれたと思われる伏流水である。そこにはひとりの仕掛け人がいた。
 松原脩雄。四四歳(当時)、弁護士。一九九〇年一月第三九回衆議院選挙では、前年の「反消費税」の土井たか子ブームの余韻をうけ、社会党が五三名増の大躍進。 自民党の五三人を上回る六〇名もの新人議員が誕生したが、そのうちの一人である。
 旧姓小学校出の父親が「学歴のないやつは損や」と脱サラして運送会社を興すも倒産。六畳一間に両親と兄弟三人が暮らす極貧生活のなかから、東大法学部へ現役入学。 一家の興亡を裏切るのを覚悟で、当時勃発した東大闘争に東大全共闘のメンバーとして安田講堂に立て籠もったというドラマあふれる経歴をもつ。 社会党奈良県本部から出馬の要請があったとき、土井委員長に直接あい「安田講堂に立て籠もって逮捕された。そんな経歴でもいいのか」と訊ねたところ、「過去は関係ない」といわれ出馬を決意。 周囲には「元過激派アレルギー」を心配する人々もいたが、「過去」はすべて公表して選挙に臨んだ。「元全共闘」は「凶状」ではなく、自己を犠牲にしてでも不義・不正に立ち向かうむしろ 「信念の証し」であると訴えれば、有権者に通じると思ったからだ。この直球勝負が反消費税の追い風にくわえて功を奏したのだろう、まだ中選挙区制の時代だった定員五名の奈良全県区で過去最高の十三万票余りを獲得、 二位に大差をつけてトップ当選を果たした。
 まず松原が永田町で仕掛けたのは「ニューウェーブの会」だった。
 すでに松原は当選以前、公認候補となったときに着想を得ていた。新人候補者が選挙前に写真を撮りがてら東京に集まった。「人種」を見て、「自分もふくめて、これまでの社会党の代議士とはまるで違う」と感じた。
 それまでの社会党代議士といえば、議員になることを人生の最終目的にした「組合の一丁上がり」と相場がきまっていたが、「新人類型の市民派」ぞろい。 職業も弁護士、大学教授、マスコミ、医者、市民運動家など顔ぶれは多士済々。中には元お茶の水女子大全共闘で新宿ゴールデン街のママという変わり種もいた。
 そもそも松原が立候補を決意した動機は、全共闘で果たせなかった「世直し」をすることにあった。議員は目的ではなく手段にすぎない。そのためには「永遠の反対派のままの社会党ではだめ」。 自民党に変わる政権担当能力を持った政党に社会党を変えたい。土井委員長を支える新人のグループをつくろう。彼らとならその目的にむかって一緒にやれると松原は確信した。
 政界再編・政権交代に向けて「新しい波」をつくろうという趣旨を妻の真知子とも相談し、妻の発案をうけて名称を「ニューウェーブの会」とした。ここにも旧来の労組タイプにはないニューウェーブな発想が息づいている。
 これはと目星をつけた仲間に「もし当選したら再び集まって勉強会をしよう」と働きかけたところ、当選をした新人六十名のうち三十名が結集。平均年齢四七・五歳。中心はいわゆる団塊世代。 松原同様「全共闘体験者」も相当数いた。東大の先輩で弁護士の伊東秀子と大学の全共闘仲間で弁護士の仙谷由人を共同代表に据え、自らは学生運動体験を共有する弁護士の筒井信隆とともに事務局長に収まった。 その後華々しく活躍し、今も政治の第一線にあるメンバーも数多い。めぼしいところを上げると、秋葉忠利(現・広島市長、当時四九、大学教授)、池田元久(現・民主党、当時五一歳、NHK記者)、 岡崎トミ子(現・民主党副代表、ネクスト環境大臣、当時四八歳、アナウンサー)、仙谷由人(民主党前政調会長、当時四六歳、弁護士)、筒井信隆(現・民主党ネクスト農水大臣、当時四七、弁護士)、 鉢呂吉雄(現・民主党ネクスト外務大臣、当時四四歳、農協参事)、細川律夫(現・民主党、ネクスト法務大臣、当時四八歳、弁護士)、松本竜(現・民主党、当時四一歳、代議士秘書)などである。
 ニューウェーブの会が世間に注目されたのは、当選二ヶ月後の三月の党大会。ここで党中央へ「意見書」を提出する。
 いわく、政権担当可能な政党に脱皮するために、組合用語・専門用語、そして「先生」と呼び合うことをやめるなど身近な改革からはじめよ。
 いわく、「誰にでも理解できる分かりやすい党」「誰にも開かれている市民感覚の党」「抵抗ばかりでなく創造する党」へ向けて改革をすすめよ。
 「身近な改革」案にはこんなものもあった。「省エネのために議員不在の時は議員会館事務所の蛍光灯は消そう」「コピー用紙は再生紙を使おう」「割り箸は使わず「マイ箸」を常に携帯しよう」 「国会内に禁煙区域をふやそう」などである。いまでこそ「当たり前」のことだが、二〇年前の陣笠先生たちにとっては「理解不能」の要求だった。
 当選回数を発言力の唯一無二の源泉と思い込んでいる労組上がりの古参たちから「一年坊主のくせに生意気だ」と圧力がかかり、頼みの綱のはずの土井委員長からも 「新人の方はまず現場を踏んでから意見をのべたほうがいい」と諭された。しかしそれをものともせず、その後も「小選挙区比例代表制の採用を中心とする政治改革」や 「マルクス・レーニン主義型からドイツとイギリスをモデルにしたヨーロッパ型社民政党への転換」など論争的な提言を行った。 執行部には「シャドーキャビネット」などマスコミ受けするアイデアはちゃっかり「良いとこどり」されたが、党改革の根本にかかわる問題は無視をきめこまれた。
 それにしても、自民・社会ともに当選回数で序列と発言力が決められる「五五年体制」にあって、新人議員がこれほど「物申した」ことは前代未聞だった。 おかげで、ニューウェーブの会は、マスコミから、「社会党のペレストロイカ」「社会党新人類」と取り上げられた。メンバーで目立ったのは、松原脩雄と仙谷由人と筒井信隆の三人。 全共闘世代の弁護士ということで、「ニューウェーブの会の三羽烏」とマスコミからもてはやされたが、その中でも松原が歯ぎれのよさと露出度で群を抜いていた。 当人から当時の資料を閲覧させてもらったが、軟派な週刊誌の紹介記事から硬派な雑誌の対談、寄稿までその量にはおどろかされた。
 初当選でいきなりこれほどの活躍をする政治家は、思いつくかぎりでは、「小泉チルドレン」の片山さつきだぐらいだが、その片山でも軟派系マスコミの露出が中心で、 論客としての露出からいったら当時の松原に遠く及ばない。
 ニューウェーブの会は新党運動ではなく、あくまでも社会党改革であった。しかし、後述するように、二年後の細川護煕による日本新党、三年後の小沢一郎・羽田孜らによる新生党、 武村正義・鳩山由紀夫らによる「さきがけ」などの新党運動と対抗しながら、ニューウェーブの会のメンバーが後に民主党結成に重要な役割をはたす。 その政治的文脈からも松原が仕掛けたニューウェーブの会は、政権交代・政界再編へ向かうあまたある伏流水のなかでも、もっとも早い時期の水脈のひとつとして評価されてよいだろう。
図書新聞 2008年7月5日号

新連載 第三回  「政権交代へのオデッセイ」
(3)全共闘世代が政界再編の推進役
 ニューウェーブの会は、提言内容もさることながら、「世代論」からみても興味深い。後に連載のテーマの一つとして取り上げることなると思うが、民主党結成に引き継がれる「全共闘世代による政治的表現」である。
 六〇年代後半、日本では全共闘運動が燃えさかり、社会に異議申し立てを行った。これは先進諸国に発生した世界同時多発現象であった。 ドイツではSDS、フランスではパリカルチェラタン、アメリカではベトナム反戦のフラワーチルドレンたち。そして、それぞれがドイツではブラント政権(1969年)、フランスではミッテラン政権(1981年)、 アメリカではクリントン政権(1993年)を生み出す原動力となった。
 日本では欧米のようないきなり政治的表現はとらなかったものの、反原発やエコロジー、生協やフェミニズムなどのニューウェーブ運動が、全共闘体験者あるいは活動家ではなくても それに共感を抱いた「元若者」によって担われた。それがようやく政治的表現をとりはじめたのが、社会党の新人類、ニューウェーブの会であるといえるのかもしれない。 そのシンボル的存在が安田講堂篭城組の松原脩雄だった。
 旧来の秩序や序列にこだわらず、言いたいことははっきり言うというニューウェーブの会の作風は、まさに全共闘世代の作風そのものであった。
●PKO問題でニューウェーブの会機能不全に

 しかし、一年たらずでニューウェーブの会は機能不全に陥る。おりしも湾岸戦争が勃発、PKO(平和維持活動)派遣議論をめぐる安全保障論の不一致が原因だった。
 日本の公務員がPKOで海外に派遣され護身のためであれピストルを使用すれば憲法九条の武力行使に該当する。だからPKOは違憲というのが当時の社会党内多数派のスタンスだった。 これに対して松原は真っ向から論陣をはった。
 PKOとは一種の国際的な警察行為であり、国連における「集団的安全保障」という概念にあたる。国連憲章上で認められた「集団的安全保障」という権利は当然日本国憲法も有している。 したがって日本国憲法が認めている国際主義であり、合憲あると。
 実は大学に入学した一九六四年、米原潜の横須賀寄港反対闘争に参加、学生運動にのめり込んでいった松原は、ながらく社会党の「絶対平和主義」を「是」としていた。 しかし、出馬にあたり、ヨーロッパ社会をモデルに社会党を政権担当能力のある党に改革するべきだとの立場をとるようになり、当選後、ヨーロッパ社会党を視察したことによってその確信を深めるに至った。 ちなみにドイツ社会党は湾岸戦争でPKO派遣賛成に踏み切っていた。永遠の反対党に甘んじるのなら「非武装中立」「自衛隊違憲」でもいいが、自民党に代わって政権を担える党に社会党を変え、世直しをするには 国民の大多数の支持を得なければならない。それには安保防衛政策をヨーロッパ社民をみならって現実路線に転換しなければならない。 そう決意した松原は、持ち前の勉強力で理論に磨きをかけて、組み立てたのが「国連憲章上で認められた集団的安全保障」論だった。
●ニューウェーブの会からANDへ

 九一年一〇月、社会党の国会議員三二人が「自衛隊と別組織なら停戦監視団への参加は認めるべき」とする「意見書」を提出、ニューウェーブの会からも松原ら一三人が賛同した。 しかし、ニューウェーブの会の中にはこれは「PKOは非軍事・文民・民生分野に限定する」という党の方針からの逸脱だと批判するものもいた。
 ここにいたって松原はAND(アクション・ニューデモクラシー)を立ち上げ、「安保自衛隊に対する党の基本政策を見直すべき」と旗幟を鮮明にする。 松原にとって、ANDの立ち上げには、単に安保防衛政策の問題だけではなく、従来の非武装中立の党是にこだわっていては、社会党を中心にした政権交代・政界再編はできないという強い思いがあった。 このANDには仙谷、筒井などニューウェーブの会の有力メンバー二〇人が結集した。
 いっぽう、後に広島市長に転じる秋葉忠利をはじめ松原のANDに組みしないニューウェーブの会メンバーは、PKOに反対する「憲法を活かす会」に拠って、袂をわかつことになる。 ここにニューウェーブの会は空中分解し役割を終える。
 松原はさらに踏み込んで、マスコミの取材に対して「武装行為をするPKF(平和維持軍)参加も合憲だ」と答えて物議をかもし、党執行部から厳重注意を受ける。
 振り返ると、松原の言説は、いまや民主党に拠る多くの旧社会党出身者には容認できる内容だが、当時では「異端」だった。 かつての全共闘仲間にとってはなおさらだった。わたしもその場にいあわせたが、ある元全共闘の集まりで早大全共闘議長として名を馳せ弁護士となった大口昭彦と松原が顔を合わせたことがあった。 そこで大口が松原とは席を同じくしないと席を蹴ったのである。当時、元全共闘の多数派にとって松原は「異端の転向者」であった。
 松原は、自民の若手論客ともわたりあい、「社会党らしくない」と脚光をあび、PKO論争には不可欠の論客となり、ますますマスコミ露出度をたかめる。 ちなみに自民党の対論相手には、岡田克也、山口敏夫、岩屋毅、小林興起、新井将敬などがおり、いずれも政界のニューリーダーたらんと自負していた政治家だった。
 さらに雑誌などにも論文を発表するなかで、松原は、小沢一郎の安全保障理論と自らのそれとに共通点があることを知る。 「集団的安全保障論」は社会民主主義の常識と思っていた松原は、なぜ保守本流の小沢と同じ考えになるのかと驚くと同時に、小沢に対して密かに尊敬の念をいだくようになる。 ただしこの時点では小沢とは政治的な接触はない。
 しかしながら、マスコミは早くも、片や社会党の当選したてのペイペイ、片や自民党幹事長経験者という対極にある松原と小沢の距離が意外にも近いことを嗅ぎつけていた。
 政界再編が現実味をもって語られはじめたころ、「マルコポーロ」(文藝春秋、一九九五年二月号で廃刊)一九九二年五月号が、「五年後の日本のニューリーダー予想」と銘うって、 タカ派、ハト派二つのリストを発表した。
 ちなみに、「タカ派政権」とは小沢一郎を首相にいただくもので、小沢を支えるニューリーダーとして以下の政治家があげられていた。
 加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎、保利耕輔、柿沢弘治、中西啓介、船田元、中川昭一、市川雄一、米沢隆、松原脩雄
 いっぽうの「ハト派政権」は、河野洋平か江田五月を首相にいただくもので、それを支えるニューリーダーとして以下の政治家があげられていた。
 海部俊樹、竹村政義、高村正彦、大石千八、田中秀征、菅直人、仙石由人、横路孝弘
 前述したように、ここにも当時の松原の露出度・注目度・期待度の高さが示されているといえよう。       
図書新聞 2008年7月12日号

新連載 第四回  「政権交代へのオデッセイ」
(4)小沢一郎との出会い。
選挙制度改革なくして政界再編なし

   PKO問題が決着をみたあとの最大の政治的争点は「選挙制度改革」だった。その背景には、リクルート事件による政治腐敗根絶の世論の高まりがあり、それに応えるためというのが政府与党の名分であった。
 すなわち、あいつぐ政治腐敗の温床は「自社なれあい五五年体制」にあり、これを根絶するには、政権交代可能な政治的緊張関係をつくらなければならない。それには小選挙区制の導入が最大の特効薬という文脈である。 しかしその実現には大いなる壁があった。自社ともに内心では「現状の中選挙区制のままがいい」という党内反対派を抱えていたからだ。社会党でも、「左派」は本音では「定数是正が先」という守旧派であった。 ここでも松原は真っ向から論陣をはった。松原は当選時からドイツ型の小選挙区・比例代表併用制の導入を提唱してきた「生まれつきの選挙制度改革論者」であった。 「新しい選挙制度に踏み込む中で政界再編なり野党共闘なりで、今の社会党の孤立状況を突破できる。中選挙区制のままで定数是正といっていたら完璧に取り残される」と主張。 これに対して党内左派からは「初めに政権獲得ありき。自民党との垣根を低くし、社会党の存在意義を失わせるものだ」(上田哲衆議院議員)と十字砲火をあびた。
 それまでの中選挙区制をこわさないことには政権交代・政界再編は起こらないという立場では、小沢一郎も同じだった。
 九二年の盛夏、松原はある人物の仲介で小沢に密かに会った。所は小沢の静養先の軽井沢。松原にとって、この時の出会いは、あれから一六年たった今でも、思い出深い人生最大の出来事のひとつでありつづけているという。 松原は率直な疑問をぶつけた。
 「小沢さんは自民党の重鎮。このままじっとしていれば総理になれる。それなのになぜ政界再編をやろうとするのか」
 これに対して小沢はこう答えた。「確かになろうと思ったらなれる。だが、この国を本当によくしないかぎり、総理になったところで意味がない」。
 この一言を直接生まで聞いたことで、松原はしびれた。只者ではない。この男は間違いなく日本の政治を変えていくキーマンだ。そう共感した松原は、以来、小沢の動きを軸に物事を考えていく。 そして、その考えはいまも変わらない。
 小沢から「社会党も政界再編に加わらないか」と誘われた松原は、「三段論法」でこう逆提案した。
 政界再編には選挙制度を変えなければならない。選挙制度を変えるには社会党を変えなければならない。社会党を変えるには労働組合を変えなければならない。
 小沢は即座に松原の提案をいれ、労組との仲介を依頼した。さっそく松原は旧知の連合事務局長の鷲尾鉄鋼労連委員長と語らって、工作を開始。そこで一ヵ月もおかず東京のホテルで、「小沢・労組トップ会談」がなった。 出席したのは、得本輝人自動車総連会長、芦田甚之助ゼンセン同盟会長、園木久治全電通(後のNTT→情報労連)委員長、そして鷲尾鉄鋼労連委員長。
 このトップ会談は極秘裏のはずだったが、「信濃毎日」にすっぱぬかれる。一面の半分ほどを占める大きな記事のど真ん中に、 「小沢氏労組幹部と極秘会談。新党論にわかに緊張感。水面下で仲介社党若手議」 の見出しが躍り、開襟シャツ姿の小沢一郎と松原の写真が掲載されていた。
 当時連合会長は山岸章で、内心では「小選挙区制」には反対だった。「オレの知らんところで勝手にやりおって」と不快感を示したという。鷲尾は小沢の意をくみながら、山岸を説得、山岸・小沢会談をセット。 これによって山岸は「選挙制度改革論者」に改心し、連合全体が舵を切ったといわれている。松原が小沢に提案したように、労組が舵をきったことで社会党がかわり、ついに九三年の細川政権のときに、 選挙制度改革法案が成立、さらにそれから三年後の九六年、小選挙区・比例代表並立制の新制度下で始めての総選挙が実施されることになる。
 政界再編は小選挙区制の導入という選挙制度改革がなければありえなかった。それは現在の「政権交代前夜」に至る二十年が証明している。したがって春秋の筆法をもってすれば、こうもいえるかも知れない。 松原が「小沢と労組トップとの月下氷人」の役回りを演じなかったら、今の「政治的大変」はなかったと。

●新党ブームのなかでシリウス始動

 松原の仕掛けで「小沢・労組トップ会談」が成立、水面下で政界再編の動きが進み始めてからわずか二ヶ月後、この年最大の政治事件が起きた。 自民党のキングメーカー派閥・竹下派が、羽田派(小沢一郎、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和ら衆院三五、参院九)と小渕派(小渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六ら衆院三二、参院三四)に分裂したのである。
 直接的引き金は、竹下派の会長で金庫番である金丸信が佐川急便から裏金五億円を受け取っていたことが発覚、議員辞任に追いこまれ、後継会長人事をめぐって内紛がおきたからだが、 底流には小沢の政界再編に対する積年の執念が作用していたことは間違いない。
 この政治的重大事件と前後して、次の総選挙を射程に入れ、新党への動きがあちこちで出始めていた。その一つが、九二年一一月三日に設立された政策研究会「シリウス」だ。 会長は社民連代表の江田五月。設立趣意書はこう謳っていた。
 「野党の連合や再編を目ざした結集の努力も、PKO国会と参院選を経て破綻状況にあると言わざるをえない。議会政治を機能させるべき政党が、その資格を喪失している。 国民の改革への渇望と現実政治の間の温度差はかつてないほど大きい。このような時に政治の新しい展望を拓くのは、政治家一人ひとりが政党の枠を超え、個人の決断と責任で行動を起こすことではないかと考える。」
 名前は政策研究会だが、趣意書は妙に生臭い。政治再編へ噛もうという意図がすけてみえる。
 働きかけをうけて、社会党から参加したのは、松原が牽引してきたニューウェーブの会、ANDのメンバーが中心だった。ちなみに、松原のほかには池田元久、伊東秀子、仙谷由人、筒井信隆、長谷百合子、細川律夫、 堀込征雄ら一〇名で、それ以外の社会党議員は前畑幸子ら一一名。残りは乾晴美ら連合参議院。そして社民連の江田五月、菅直人である。
 シリウスに関しては、松原はニューウェーブの会やANDのように中心で牽引する役はあえて引き受けなかった。いわば「客分扱い」をつらぬいた。シリウスの動きを内心でこう読んでいたからだ。
 代表は社民連の江田五月だが、実質の回しは菅直人。この五月に細川護煕が旗揚げした日本新党に触発されて既成政党内部からも新党の動きがはじまっていた。 細川の日本新党と結びつく流れを社民連・社会党の脱党グループからつくる。社民連という「小」が旗を振って社会党から若手を引き抜いて一緒にまとまった時の軸になろうとしているのではないか。
 松原としては、シリウスに名前はつらねたものの、小所帯の社民連は気楽なもので、大所帯の社会党の中にいて動くのは「かなりしんどい」という感触を当初からいだいていた。 


図書新聞 2008年7月19日号

新連載 第五回  「政権交代へのオデッセイ」
(5)羽田孜から「社会党脱党」をうながされる

   シリウスよりも心を動かされたのは、羽田孜からの直々の誘いだった。 羽田は、九二年末、小沢一郎と共に自民党竹下派を割り、新党の模索をはじめていた。羽田の行きつけの蕎麦屋に誘われ、そこで「社会党を出て一緒にやらないか」と打診をされたのである。 同年六月二三日に羽田孜が代表となって四四人で新生党が結成される以前のことである、(その二日前の六月二一日には武村正義が代表となって一〇人で「さきがけ」が結成される)。
 間近にせまった選挙を担ってくれるのは社会党と労働組合しかない。社会党の看板なしでやれる自信はなかった。もう一回社会党で通って、状況を見定めてからでも間に合うのではないか。 松原の胸中を、そんな迷いが去来し、心引かれながらも、羽田の誘いを断った。結局松原は社会党公認で二回目の選挙を闘うことになった。

●九三年総選挙。得票を半減させて次々点に泣く

 一九九三年六月一四日、野党から提案された内閣不信任案が小沢一郎ら「自民党内政治改革推進派」の賛成によって可決、宮沢首相は総選挙にうってでた。
 新党ブームがおきたら、社会党の看板で選挙はやれないかもしれない。そんな松原の漠たる不安が的中した。七月一九日投票の結果は、日本新党三九(三九増)、新生党五五(二〇増)、さきがけ一三(三増)と 新党ブームの大風が吹き、そのあおりを社会党がひとり受け、一三七から七七と議席を半減させる歴史的敗北を喫したのである。
 シリウスも新党へ飛躍する決断ができなかった。政界再編の好機だったにもかかわらず、代表の江田五月は「選挙資金のめどがたたなかったこと」を理由にルビコンを渡らなかった。 新党ブームに乗れなかったシリウスは衆院メンバー一六人のうち一〇名が落選。再選を果たしたのは、シリウスの言いだしっぺである社民連の江田と菅。社会党では土肥隆一などわずか四名だった。 もっともワリをくったのは、松原らニューウェーブの会、AND経由でシリウスに拠った「社会党改革派」であった。有権者からは「守旧」とみなされた本籍地・社会党で戦わざるをえず、 松原を含めその多くが枕をならべて討ち死にする結果となった。惨敗をうけてシリウスは総選挙後の八月二六日活動を休止する。
 選挙中に松原は新党ブームの風をひしひしと感じていた。しかし、自分たちは社会党を変えようという改革派なのだから、新党ブームとつながっているはずだと勝手に思い込んでいた。 まさか自分のところに逆風が向かってくるなどとは考えだにしなかった。
 松原の奈良全県区は定員五、社会党からは前回一三万余でトップ当選の松原、自民党からは奥野誠亮と田野瀬良太郎、公明からは森本晃司、共産から辻第一、新生党からは元自民の前田武志、日本新党から岡井康弘。 そして自民の公認争いに敗れた新人の高市早苗が無所属で出馬していた。
 下馬評では票はへらすものの松原優勢、自民公認の二名と公明は有利、新生は元自民ということもあり優勢。自民の公認をとれなかった高市は不利といわれていた。
 結果は以下のとおりであった。 高市早苗(無所属新)131,345
前田武志(新生前) 115,893
奥野誠亮(自民前) 113,254
森本晃司(公明前)  97,267
田野瀬良太郎(自民新)90,886
辻第一(共産前)   82,673
松原脩雄(社会前)  78,801
岡井康弘(日本新党新)32,380
 戦前の予想をうらぎって高市がトップで当選、前回十三万票をとった松原は得票を半減させ、共産候補の後塵を拝して次々点に泣いた。自民の公認がとれず不利といわれた高市だが、 むしろ無所属であったことが幸いした。男でも相当体力と気力がないとやれない、上半身を街宣車から乗り出す暴走族まがいの「ハコノリ」をやり、演説はタカ派で旗幟鮮明で歯切れがよい。 若くて美人で女性よりも男性に人気がある。これが新党ブームと相乗効果を果たしたのである。日本新党の新人・岡井も立候補していたが、新党ブームの期待票を高市と岡井がわけたかっこうになった。 両者でわけあったその票は、おそらく前回土井ブームで松原をトップに押し上げた票でもあった。
 選挙中盤で危機感をおぼえた松原選対からは「今は社会党でやっているけれども、当選したら社会党を軸に新党運動に参加します」と訴えろとの「指導」が入ったが、時すでに遅かった。 逆風の前には労働組合も部落解放同盟などの支援組織も力の発揮のしようがなかった。だったら旧来の組織に頼らずやればよかったのにという後悔が松原周辺にはあったが、すべて後の祭りだった。

●自さ社村山政権の二日前に社会党を離党

 松原は地元奈良へ戻り、弁護士を続けながら、捲土重来をかけた浪人暮しがはじまった。いっぽうかつて松原が華々しく活躍していた永田町では大激変がおきていた。
 九三年六月八日、日本新党の細川を首班に社会党も参加した非自民連合政権が成立。しかし、一年足らずで内輪もめがおきる。社会党が「仲間外れ」にされたと反発したことが遠因だが、 その不協和音を自民党につかれる。九四年六月二九日、社会党の党首・村山富市を首相にかつぐという奇策によって自民はまんまと政権を奪還するのである。
 これを事前に知った松原は「改革を天秤にかけるとは政治的犯罪だ」と怒り心頭に発した。この奇襲作戦の仕掛け人は自民総裁の河野とさきがけ代表の武村とされ、 小沢が細川政権を成立させた離れ業を学習したものといわれている。小沢は少数派だがキャスティングボートをにぎる日本新党に首相を差し出すことで、五党による細川連立政権をつくりあげたが、 河野と武村は同じ手口で社会党に首相を差し出したのである。松原からすると、細川政権は悲劇に終わったものの政界再編への挑戦であったが、村山政権は反動の茶番劇でしかなかった。 これを仕組んだ人物も、積極的ではなくともそれを追認した人士も許せないと感じた。
 もし松原が再選していて、ニューウェーブの会のメンバーの多くも落選せずにいたら、ニューウェーブの会が登場したときのように、社会党執行部にとことん抗ったことだろう。 そうすれば、自社さ政権は成立せず、政界再編はもっとはやく進んだかもしれない。しかし、大半が落選中の彼らには情報も入らず、抗うにも拠り所がなかった。
 松原は、とにかくこれまでは「社会党を変えることで日本の政治を変える」という政治姿勢でやってきた。しかし、この一件で、その思いがプツンと切れた。 この党は完全につぶれる。村山委員長と一緒に墓場に行くのは嫌だ。そう決断した松原は村山政権成立の前日に、社会党奈良県本部に離党届を出した。


図書新聞 2008年7月26日号

新連載 第六回  「政権交代へのオデッセイ」
(6)新進党へ

   永田町では政治の流動化がさらに進み、「新・新党」結成の動きがはじまっていた。その一つに、超党派の若手による「有志集団Rリーグ」や「比較政治制度研究会」があった。 社会党離党後の松原もそこへ積極的に参加する。気分はさながら脱藩して横議横行する草莽の志士だった。有志集団Rリーグで「将来一緒の新党で働こう」とかたく誓いあったなかには、 松原と同じく落選し捲土重来を期す岩屋毅(自民→さきがけ)、比較政治制度研究会では公明党の平田米男がいた。平田とは松原が上京するおりには議員宿舎を「定宿」に提供してもらうほどの仲だった。 松原にいわせれば、岩屋は「ついに新・新党で名実ともの同志と呼べるようになった」、また平田については「政治観、市民感覚はほとんど一緒。違うのは宗教だけ」の盟友であった。
 そして、九四年一二月、「自社さ」の奇襲戦法で権力からはじきとばされた新生、日本新党、民社、公明(一部参議院議員と自治体議員はのぞく)、そして自社さ政権からの「脱藩組」などによって 「新進党」が結成され、党首に海部俊樹、幹事長には小沢一郎が就任した。衆院一七八、参院三六、総勢二一四議席は、自民の衆参あわせた二九五につぐ大所帯だった。 マスコミからは「二大政党制近し」と期待の声が寄せられた。
 松原は、横浜で開催された新進党結党大会に参加。政界では俗に「落選したらただ以下の人」といわれるが、松原の政治的去就が一般紙や写真週刊誌など硬軟さまざまなマスコミに取り上げられた。 それは、松原の「現役時代」の活躍ぶりの余韻のおかげであり、松原にはまだ期待値あったからだろう。
 松原が新進党を選んだ理由は、ひとつには、安保防衛政策で松原の考えに近いからであった。前出の有志集団Rリーグの集まりで、 「私の目からみたら、少なくとも安全保障にかんする限り小沢一郎氏は社会主義者だ」といいはなって新進党の若手議員を驚かせたことでも松原のスタンスは明確だった。
 理由はもう一つあった。すでにシリウスに拠ったときに理論誌創刊号に立場を表明していたが、二大政党制に対する松原なりの考え方の変化である。 当初松原は二大政党制といってもヨーロッパ型の「社民」対「保守」を志向していたが、そこからアメリカ型の「民主」対「共和」のような「傾向の違い」による二大政党制へスタンスを切り替えていた。 理念や政策の違いを明確化することよりも、政権交代可能な政治的緊張をつくることを優先させようというのである。 それが日本の政治状況にあっていると考えたからだ。その根拠としては、先の参院選で連合候補が惨敗、社民結集路線が破綻したこと。 そしてなによりも社民勢力の中核になるはずの日本社会党が、ヨーロッパ社民の現実主義路線に転換する気配がさらさらなく、いつまでも「何でも反対」の抵抗政党のままでいることに絶望したからであった。

●第三極新党にはくみせず

 いっぽうで、社会党内では「第三の道」を模索する昔の仲間たちもいた。「自民と新進の保保二大政党制は危険である、リベラル勢力を結集した第三極が必要」とする考え方である。
 松原は、これを手厳しく批判して、新進党への結集をこう呼びかけた。
 「全員まとめて自滅するほかはない社会党の現状を突破する唯一の試みとして非常に積極的な意義を有していると思います。 しかし、その第三極新党が独立して存続しうるかという問いに対しては、私は否定せざるをえません。
 その理由は、第一にあまりにその決断が遅きに失したため、社会党から飛び出した少数者の裸単騎で終わるだろうということ。 第二に、遅きに失した政治行動は、戦争の敗北局面において、優勢な敵勢力に竹ヤリをもって万歳突撃をすることに似て、全滅するという法則の適用をうける段階にいたっていると判断されること。 第三にかれらの掲げる理念、政策が明瞭でなく、目下の日本政治の対抗軸に無自覚であると思われることに求められます。」(九四年一一月)「なぜ前社会党議員が新・新党へいくのか」
 大見得を切った松原だが、社会党に踏みとどまっているかつての「戦友」たちは、松原の脱党の呼びかけるに応えることなく、結局松原一人が「裸単騎」で新進党へ行き、 後にのべるように「討ち死に」することになったのは歴史の皮肉であった。(なお、第三極論については別の機会に詳しくふれる)

●新進党から入党拒絶、政治家を断念

 さて、こうして新進党入りをきめた松原だが、思わぬしっぺがえしを受ける。当の新進党から入党を拒絶されたのである。
 そこには長年来の地元の事情がからんでいた。ともに新進党へ合流した新生党の現職と公明党の現職がおり、ホンネをいうとこれ以上ライバルは増やしたくない。 いっぽう松原に見限られた社会党奈良県本部からも、地元新進党へ圧力がかかった。国政レベルでは対立していても、知事選や首長選挙などの地方選挙では保革相乗りが「常態」で、「貸し借り」の関係にある。 それが五五年体制の実態であり、それを改革しようという新進党も地元レベルになると古い体制を引き摺ったままだった。 「新しいはず」の新進党にとっても「古いまま」の社会党にとっても松原は「厄介者」であり「邪魔者」だったのである。そんな地元の裏事情があって、新進党への扉はピタリと閉まった状態がつづいたのである。
 膠着状態を打開するために、新進党の事実上のトップである小沢一郎に直訴する手もあったが、松原はあえてしなかった。 どんな事情があるにせよ、とにかく地元にはいつくばって組織をつくって当選してこそ政治家というのが小沢の政治信条であることを松原は知っていたからだ。 甘えを許すような男ではない。松原も直訴するような無様な真似はしたくなかった。
 この地元でのもつれは松原にとって限りなき消耗戦だった。なにしろラブコールを送った相手から袖にされたのである。こちらから縁切り状をたたきつけた社会党との軋轢の比ではなかった。 そんな消耗戦を闘う夫を見るに見かねてか、妻の真知子から「もう政治はやめてほしい」と懇願された。ここにいたって、松原は決断をした。
 いくら理不尽でも地元のバックアップを得られないのは「自らの不徳のいたすところ」。 松原が先頭にたって推進してきた小選挙区・比例代表制という新制度下での初の総選挙に新党候補として立候補できないのはいかにも残念のきわみだが、あきらめよう、と。 そして、翌年一九九五年の奈良県知事選に無所属で出馬する。惨敗だった。もとより勝てる展望はなかったが、これで政治家としてのけじめをつけたかった。 松原にとってこれは「政治をおりる」ための儀式(イニシエーション)であった。松原の政治生命は五年たらず(現役としては三年)で終わった。
 県知事選に敗れ政治をおりた翌年、新制度下で歴史的な選挙が行われ、松原を拒絶した新進党が一五六議席、また松原の社会党時代のかつての「戦友」たちが合流した第三極新党「民主党」が五二議席を獲得。 自民の二三九議席には及ばなかったが、政界再編の第二幕がはじまった。しかし、そこには松原の姿はなかった。


図書新聞 2008年8月2日号

新連載 第七回  「政権交代へのオデッセイ」
(7)弁護士廃業の憂き目から蘇る

     その後の松原の人生はけっして平坦ではなかった。おそらく政治家以後の松原の人生履歴だけで興味深いドキュメンタリーがかけそうだが、それは本連載の目的ではないので簡単な紹介にとどめる。
 政治家をやめ弁護士稼業に復帰して1年後の一九九六年九月、スキルス性の胃癌が見つかり、即半分を切除し、ことなきを得た。 それから五年後の二〇〇一年一〇月、突然原因不明の高血圧症を発症。錯乱状態に陥り入院。なんとか回復するも、これが原因と思われる極度のうつ病にかかり仕事がまったく手に付かなくなる。 ついに、同年一一月、松原は今度は生活の糧でもあり天職とも自負してきた弁護士をやめる決断をする。 まだ大学進学を控えた子供が三人もいたが、「いざとなったら、自分もふくめて女房にくわせもらおう」と覚悟をきめた。 弁護士を廃業し、積年のあこがれの地である日本の歴史の原点ともいうべき奈良県明日香村に住居を移し転地療養につとめたところ、奇跡的に体調も精神も回復。二〇〇七年、晴れて弁護士稼業を再開した。
このように政治をおりた後の松原の人生は、政治家時代以上に「激変」の連続だった。ときに政治は人間をハイにもさせるがそれに倍するストレスも与える。 全力疾走した五年間がどこかで松原のその後の人生に影響をあたえたことはまちがいあるまい。

●いらちなやんちゃくれ政治家

 松原の政治生命はわずか五年ほどしかなかった。にもかかわらず、その間に松原がなしとげたことは驚嘆に値する。 ニューウェーブの会にはじまって社会党離党・新進党に拒絶されるまでの軌跡は、今から振り返ると、百年に一度あるかないかの「政治的大変」のはじまりを刻み、今おきつつある政治的大変の震源地の一つとなった。 本連載の初回で松原をふくめた政界再編の仕掛け人たちを「鰻の稚魚」にたとえたが、松原は稚魚は稚魚でもマスコミの露出度、提案力などからいって「大器」を約束された稚魚であった。 それなのに稚魚のままで終わったことはいかにも惜しいと思われてならない。

 ふみとどまって後退戦を戦いながら、機を見て反撃にでることも可能ではなかったか。政治流動の二十年をふりかえってみると、稚魚たちの幾尾かは、時間をかせぎその場をしのぎながら生き延び、 歴史的な政権交代前夜に立ち会おうとしている。

 松原とともに「ニューウェーブの会の三羽烏」と呼ばれた仙谷由人も筒井信隆もしかり。松原同様、二度目の選挙は落選するが、三年の雌伏の間に第三極新党の民主党に合流、再選をはたし、 かつては保守の補完物にすぎないと批判・拒絶をしていた「新進党」や「自由党」を糾合し、いま参院第一党となった民主党でしかるべき地位をしめ、政権を奪い取ったあかつきには要職が約束されている。
 松原が尊敬してやまない小沢一郎はすでに政治流動がはじまった時から「成魚」であったが、巨体の成魚のわりに身のこなしが敏捷で時間をかせぎその場をしのぎながら生き延びてきた。 小沢の身上は最後の徳俵でのねばり腰だ。新進党の分裂、自自公からの脱落。最近では自公与党と民主の大連立構想事件など、「もうこれで小沢の政治生命は終わりだ」と何度いわれたことか。それでもどっこい小沢は復活した。
 なぜ松原は「戦友」の仙谷、筒井、さらには「師」とあおぐ小沢のように、時間をかせぎその場をしのげなかったのか。松原からは、こんな答えが返ってきた。
 「そもそも僕には政治家として資質がかけている。人間類型でいえば僕は吉田松陰。高杉晋作は少数派として突進しながら最後は多数派になる。 それに対して吉田松陰はいいことは言ったけれど後ろには一つも政治がなかった。自分もそういうもんやったんかなあ」
 これには若干の補足説明が必要だろう。実は松原がもっとも敬愛する歴史上の人物は高杉晋作である。次男には「晋仁郎」と命名したほどだ。 しかし、その高杉晋作たろうとしたものの、松原の中には政治音痴の「論客」吉田松陰がいて、これがじゃまをして政治にとって最も大切な「多数派」たりえなかったのが残念でならないといいたいのであろう。 松原が仕掛けたニューウェーブの会も、ANDも、シリウスも、結局政界再編の「奇兵隊」とはなりえなかった。
 もうひとつ松原の総括は、政界再編のプロセスは読むことができたが、その速度を読み誤ったことだという。政治過程は行きつ戻りつしながら変化をしていくことは承知しているが、 そのスピードは松原が考えている以上に遅かったというのだ。
 大阪で育った松原は自他共に認める「いらちなやんちゃくれ」である。信号が青になるのが待ちきれない、思いついたら溜め込まずに言葉にだし、即身体をうごかしている。 そんな松原にとっては、政治流動化の流れはもどかしいぐらい遅かったのだろう。
 その意味ではそもそも政治家として「短命」が約束されていたのかもしれないが、逆に「いらちなやんちゃくれ」だからこそ、これまで記してきたようなことをわずか現役生活三年でできたのではなかろうか。
 いま政権交代前夜にあって、私たちは政治的にどこから来たのか、そしてこれからどこへ行こうとしているのかを、しばし立ち止まって自問する時機にある。 そのとき、松原脩雄という「高杉晋作と吉田松陰」をあわせもった「いらちなやんちゃくれ政治家」が二十年ちかく前に刻んだ早すぎた軌跡は、今こそ参照されるべき一級の史料になるのではなかろうか。
 衆議院副議長におさまっている横路孝弘に話のついでに松原の評価を聞いたことがある。「もったいない、急ぎすぎた。いまいれば力になるのに」というのが感想だった。 民主党前政調会長の仙谷由人と話したおりの松原評も同様であった。
 ほとんどの有権者の脳裏からは松原脩雄は消えて久しいが、改革をめざして走ってきたかつての「仲間」の中には今なお深く刻まれているようだ。
 あれ以来、松原は小沢一郎には会ったことはない。会おうと考えたこともなかった。しかし、この夏に開かれる小沢一郎の勉強会に顔を出すつもりだという。 軽井沢での「極秘会談」以来一六年ぶりの再会である。そのとき二人の間でどんな会話がかわされるのか、興味ぶかい。 ニューウェーブの会、AND、シリウス、新進党と松原脩雄が駆け抜けた五年間の軌跡を、小沢一郎がどう評価しているのかを、ぜひ知りたいものだ。


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